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  1. 中標津論 ~防災について

中標津論 ~防災について

【みわ】今日はどのようなお話でしょうか。

【町長】防災についてお話ししようかと思います。

【みわ】大切なお話です、特に最近は頻発する異常気象で大雨洪水、そして、東日本大震災のような、千島海溝地震が心配されてますから。

【町長】そうですよね。特に地震は津波発生による災害が危惧されてまして、海沿いの町では避難タワーの建設がされてます。迂回道路の建設も始まっています。

【みわ】避難タワーって相当大きなものなのでしょうか。

【町長】正確ではないけれど、津波の高さよりは高いんでしようね当然、何人避難できるかは不明ですが、何千人とはならないと思います、あくまでも緊急避難用だと思います。

【みわ】それ以外の人たちはどうするんですか。

【町長】高いところへ避難する。ビルがあればビルへ、高い岡があれば岡へ。

すでにそういうマニュアルを作って、地区別に何分でどこへ避難できるかをシミュレーションしてますね。

【みわ】中標津はたぶん津波の心配はないんですか。

【町長】たぶんないと思います。でも、よく考えるとね、津波が来ると海辺の町、特に太平洋側、釧路市から釧路町、厚岸町、浜中町、根室市もそうかな被害を受けると予想されます。

で、そうすると被災後の復旧をどうしようかということになるでしょ。

けど、海沿いの国道44号線ね道路が寸断されることになる。今急ピッチで迂回道路作ってますけど。

港はすべて津波で使えない、支援物資をどうやって運ぼうかということになるでしょ。

【みわ】はい、そうですね、どうするんですかねぇ。272号線は被害受けてない。

【町長】釧路市が被害受けている可能性がある。

【みわ】とすると、

【町長】とすると

【みわ】わかりました。空港を使うんですね。

【町長】いいですねぇ、その通りです。

いろんな方法がありますけど、空港利用というのは選択肢の中でもかなり有効ですね。

人を運んだり、モノを運んだり。

ただし、被災地までの道路が通れるかの確認が必要。

【みわ】道路の無事も確認しなきゃならない。でも道路ってたくさんありますよね。

【町長】そう、それらをどのように点検するかとかは周りの町と情報を共有しなきゃならない。1つの町じゃなくって複数でしなきゃならないことですね。

【みわ】それってもう出来上がってるんですか、確認体制。

【町長】実は体制づくりされてないのですね。

【みわ】何とかしなくちゃならないんですよね。

【町長】それはわかってます。

でも、今までの防災訓練て、単独町が基本で、広域で実施といってもどこかで集まってみんなで見学するという感じなんですね。

本当に自治体またいでこんな場合どうしようかという訓練は実はしたことがない。

ので、やろうかなと提案中です。

【みわ】絶対必要ですよね、これだけ大規模地震が来るって言われてるんですから。

【町長】そう、特に中標津は津波がないと思われるので、支援基地としての役目が大きくなることが予想される。

東北での地震でも、太平洋側から少し入った遠野市がそういう役割をもってということで、同じことが言えるみたいです。

【みわ】なるほど、大規模地震に備えるためにはいろんなこと考えなくちゃならないんですね。

【町長】実際に起こると、いろんなことが怒涛のように押し寄せて、必死になってさばいていくことになるんだろうけどね、で訓練しておくとうろたえずに済むこともあるでしょ。

家庭でも。みわさん家は防災グッズありますか。

【みわ】はい。カセットコンロのガスは箱で用意、蓄電池も二つほど用意しています。西村町長はいかがですか。

【町長】あるよー沢山、アウトドア用具びっしり。ランタンからストーブ、コンロまで、保存食もインスタント中心に。胆振地震で停電あったでしょ、ほとんどキャンプ生活でしたね。

【みわ】そんな感じします、余裕で生き延びるタイプのように見えます。

【町長】そういえばさ、道東は地震が多いでしょ。自身の記憶ってどのくらいあります。

【みわ】そうですねぇ。釧路沖地震と東方沖地震は鮮明に覚えています。町長はいかがですか、思い出深い地震。

【町長】まずね、小学校1年の冬、忘れもしない土曜日、家に帰って昼ご飯を食べようとしたら、突然ドーンて、目の前の茶箪笥がテーブルの上に倒れてきて、何が起きたのかわからない。地震よりもせっかくの肉ナベがと思っていたら、父親が僕を抱えて外に飛び出した。

というのが初めての地震経験。養老牛や西竹付近の直下型だったみたい。

【みわ】地震よりもお昼ごはんだったわけですね。子供ですからそんなものですか。

次は。

【町長】中学校3年かな。十勝沖地震ですね、学校の非常階段を使って外へ出ましたね。

その後も揺れてたので大きくて長い地震でした。

さらには、高校2年か3年の時、3週続けて地震てのがありまして、震度4くらいのが毎週で、またかよって感じ。

西別岳登山中の地震てのもありました。笹原が波打ってましたね。

【みわ】よく覚えてますねぇ。

災害の記憶って、やはり恐ろしい目にあった時って記憶に残るんでしょうか。

嬉しい時とどうですか。

【町長】それはそれで残るけど、うれしい時って割と一瞬じゃない、災害はあと引くしね。

【みわ】地震最中って皆さん何してるんでしょうかね。

【町長】釧路沖の時は、息子と娘はテーブルの下に入ってた、僕は一番下の子供をを抱いて柱につかまってた。長かったし。ガッチャン、ガッチャンていろんなものが割れる音してました。妻はストーブの上のヤカンを持ってテレビを抑えてた。

【みわ】奥さんしっかりされていますね。

【町長】職場の人で、気が付いたらヤカン持って外にいたって人もいました。

【みわ】緊急時ですからね、根室東方沖の時は何してました?

【町長】僕は出張中で、北見にいたので震度3でしたね。

【みわ】えーっ、奥さんと子供たちで過ごしてたんですか?

【町長】そ、でもねある意味いなくてよかったところもあるんだよ。

【みわ】そんなことってあるんですか。

【町長】まずね、地震て秋だったでしょ、10月だっけ。

新築したばっかの家、7月に引っ越して被害にあいました。

【みわ】それはとてもご愁傷様としか言いようがありませんが。

【町長】その時子供の部屋を作って普段はその部屋で寝るんだけど、その日に限ってかみさんと寝てたんだよね。ロフトみたいなとこで寝るんだけど、地震ではしご外れてたんで、もしかしたら子供落ちてたかもしれないし、引っ越し前の家だったら箪笥の下敷きだったかもしれない。

そう思いと不幸中の幸いではなかったかと。

【みわ】ポジティブですねぇ。世の中いいようにいいように考えるって大切ですよね。人間万事塞翁が馬でしたっけ。

【町長】いいことわざ知ってるねぇ。

でも、家が傷んだのは悲しかったね。地震保険は行ってなかったし。今でも傷跡残ってます。

【みわ】それも思い出ですか。

【町長】それは忌々しいほう。

【みわ】保険は今も入ってないんですか?

【町長】そろそろかなと思って、最近やっと入りました。